友禅和紙:丸山染工

丸山染工 工場長
秋山和丈さん

先代から引き継いだ工場で友禅和紙の製作を手がける。

和紙だけでなく、生地、木材、革など様々な素材を用いての製作にも取り組む。

 工場に足を踏み入れると、強いインクの香りがした。 
 ガタン、ガタン、という規則的な音だけが響く。
 一面に張られた和紙の上に型を置くときの音だ。
 職人さんが大きな型を移動させ、ガタン、と和紙に置き、一色ずつ色を乗せていく。
 リズミカルで軽みのある、反復する音とは裏腹に、型はとても重そうで、その作業も緻密なものであることがすぐに見て取れた。 

「この作業台は、父親が作ったんです」
 工場長である秋山さんがわたしたちを案内してくれた。
「父が自分に合わせて作ったので、誰にでも合うわけではありません。ここで作業するには身長に制限があるんです。やりたいと言ってくれても、身長が合わなくてお断るすることもあります」
 職人さん達は慣れた手つきで作業をしているが、その工程はどこを取っても細やかで、間違いが許されない。

 最初に真っ白な和紙を台に貼っていく。ここで少しでも歪むと、その後の工程でズレが生じる。
 直角。とにかく直角を合わせること。
 手元で1mmずれるとてっぺんでは1cm以上のズレになる。

 このあと一色につきひとつずつ、型を置いてインクを載せていく。 
 ここでも少しのズレが命取りになる。いくつも色を重ねるので、その中のひとつでもズレると図案が崩れる。

 台の上には型が歪まないように、ガイドの役割となる金具がついている。ガタン、ガタン、というリズミカルな作業の中で、一枚一枚、型の木枠をガイドに当て、直角がきちんと直角であることを確認し、ガタン、と和紙の上に置いていく。
 一枚一枚丁寧に何色も重ねられたインクは、存在感のある厚みを持つ。機械印刷では出し得ない存在感。微かな盛り上がりだが、離れて見ても色が「乗っている」とわかる。

 色の調合は、秋山さんが担当している。
 受注製作で作ったものは、再度注文があったときのため何色が何g、と細かく分量を書き残さなければいけない。長年同じ上皿はかりを使い、化学の実験のように、秋山さんはインクを量る。
 工程の途中でなくなることがないように、色は多めに作る。余ったものはインクが腐ってしまうまでの間、一斗缶で保管される。 

 秋山さんから、これまでの「少し変わった」仕事を見せてもらう。
 蓄光塗料を使った和紙をはじめとする、多彩な技術と新しい着眼点がそこにはあった。
 蓄光和紙は、例えば舞台上に使用して暗転中にそこだけ光らせたり、夕刻以降のイベントでぼうっと光るオブジェを作ったりできる。ここでは一枚の白い和紙から、表現の可能性がどんどん広がっていく。

 ーー新型コロナの影響は、どうでしたか?

 わたしの質問に、秋山さんは明るい笑顔を曇らせた。

「僕たちの作っているものは、民芸品やパッケージ、贈答品として必要とされるものです。そのあたりの業種が軒並みガタガタになった。要するに高級品、嗜好品というものは不要不急と言われて売れなくなった。うちも注文がなくなり、工場も稼働しない日が続きました」

 それでも、と秋山さんは続ける。

「ここを閉めてしまうわけにはいかないので、なんとか頑張り続けてやっと少しずつ注文いただけるようになりました」

 秋山さんに笑顔が戻る。

「ここがなくなると職人は、他の仕事ができませんから」

 その笑顔はどこか、誇らしげだった。

(2021.10.31 文・守田雪子 写真・桟敷美和 ※最後の一枚のみ丸山染工さん提供)

丸山染工webサイト
https://paper-of-japan.com/

主催者の、思い出

TradArt Complex企画・主催

カフェギャラリーときじく代表・店主
守田雪子

 1階では祖父が京繍の仕事をし、2階では父と母が友禅の仕事をしている。
 そんな家で、わたしは生まれた。

 2階に2部屋あった。小さな踊り場のある階段を上がると、左の部屋が両親の仕事場、右の部屋がわたしの遊び場がだった。

 遊び場といっても、要するに仕事をしている間、子どもを閉じ込めておく部屋だった。というと聞こえが悪いが、仕事中「かしこく」(ゆきちゃん、かしこくね、とよく言われた)ひとりで遊んでいることは特に苦痛でもなかった。

 遊ぶものはたくさんあった。
 母が作った丸太のような豚のぬいぐるみに乗って「はいどう、はいどう」と言いながら引き摺り回し、畳をダメにしたり、おもちゃのスロットマシーンの、「押せば当たる」秘密のボタンを見つけて四六時中ジャラジャラいわせたりしていた。4歳までには犬棒カルタを全部覚えたし、赤毛のアンを読める程度には文字がわかるようになった。とても豊かな時間だった。

 父は友禅の下絵描き、母は染色をしていた。その頃どのような工程でどんな風に仕事をしていたのかは覚えていない。けれどもしょっちゅう得意先のおじさんが階段を上がってきて「ゆきちゃん、おっきなったなあ」とか何とか、ふすまを開けて顔を出すわたしにかまってくれたのは覚えている。

母の字で「雪子、友禅一日入門」と書いてあった写真

 仕事場の壁一面には両端に針のついた細い竹の棒「伸子針(しんしばり)」が並んでいて、反物を張るために使うのだった。これがわたしにとっては「生活の道具」であった。というのは、当時いわゆる「ぼっとん便所」で、幼いわたしはその深い闇の中に履き物をよく落とした。その度に母が伸子針でそれを拾うのだった。
 今思えばさして深いわけでもなかったのだろう、だからこそあんなに小さい子どもを一人でぼっとん便所に行かせられたのだ(つまり落ちたところで危険はなく、せいぜい臭いぐらいのことだと思われていた)。
 しかしわたしにとっては、見えもしない遠い遠い底に落としてしまった履き物だけでなく、またやってしまった、あんなに注意していたのに、また足からぬげて、ああわたしはなんてどんくさいのだという感情、罪悪感に劣等感の入り混じった暗い暗い闇から、わたし自身をも救い上げてくれる棒だった。母を呼んだものの黙りこくってしまうわたしと、またか、という表情の母がぼっとん便所を覗き込む。ところが伸子針の先に履物がぶら下がって地上に戻ってくると、一転してわたしも母も笑顔になり、「くっさー!」と言えるのだった。その救世主こそが伸子針であり、それが壁一面にあるという安心感は、誰にも共感されないかもしれない。

 仕事が一段落すると、ふすまの開く音がする。父はたいてい、そのままわたしの遊び場に来てちょっと遊んで、また仕事場に戻る。わたしは日中、一人がさみしかったわけではなかったが、しかしそれでもその時間を心待ちにしていたように思う。
 あるとき、いつものようにふすまの開く音がした。あ、父が遊びに来る、と思ったがしかし、すぐに階段を降りる音がした。あれ? なんで遊びに来ないの? と不思議に思ったわたしはサッとふすまを開けて階段を見下ろした。そこには父の背中があった。
「こら!おしっこかけたろか!」
 わたしは咄嗟にそう叫んだ。なんでゆきちゃんと遊ばへんの!? という気持ちがそんなセリフになった。
 振り返ったのは父ではなく、得意先の山田さんだった。
 山田さんと、奥から出てきた父が、弾けるように笑った。
「おしっこ、かけんといてぇな」
 山田さんが言ったが、わたしは恥ずかしくて恥ずかしくて、固まったままなんの返事もできなかった。

 おやつの時間だったか、階段を降りて祖父の仕事をじっと見ることがあった。
 わたしがチョロチョロとうるさかったのだろう、ある日祖父が「ゆきちゃんお手伝いするか?」と言った。
「やったー! やりたい!」と即答したわたしに、祖父は「トンボ」と呼んでいる十字の糸巻きを見せた。
「糸巻きするんやで」
 祖父はタンスいっぱいに、仕事で使う絹糸を持っていた。ほんの少しずつ色の違う糸がそんなにもたくさんあるのに、さらにその間の色が必要だと言っては台所で糸を染めていた。染料の匂いが立ち込め、祖母は「このニオイすると、料理する気にならへんのや」と、どこかウキウキした顔で言って、その日はお寿司をとることになる。
 染めた糸が乾くと、「トンボ」で糸巻きをする。「ゆきちゃん、仕事やで」と言われると、テレビのピンクレディーもそっちのけで飛んでいき、祖父と向かい合って正座をする。わたしが両手を肘から直角に上げると、そこに祖父が糸をかける。祖父はわたしが両手に纏った糸の中から魔法のように糸の端を見つけて、スッと引き、トンボを使って巻き取っていくのだった。
 わたしが熟練の「直角肘」になったと見ると、祖父は「トンボ」を持たせてくれるようになった。あとからやり直していたのかもしれないが、祖父はわたしに「トンボ」を任せてくれるようになった。
 しばらくして、家に「糸巻き機」がやってきた。ファウストでグレートヘンが使っているような、糸巻き機。
「これはゆきちゃんの仕事道具やで」
 といわれて有頂天になったことを覚えている。ぐるぐるハンドルを回すと糸が巻けるので、わたしはすでに巻き終わった糸をもう一度巻いたり、巻けるものを探して家中うろついたりした。いつも日の差す場所に糸巻き機を置いてもらっていた。

仕事中の祖父のまわりでウロチョロするわたし
すぐにこうして、邪魔をする

 そんなころ、妹が生まれた。

 なぜか妹が生まれてからの記憶が薄い。4歳で妹が生まれ、わたしは幼稚園に入れられる。楽しかった日中は幼稚園の「チーチーパッパ」に取って変わられ、わたしの頭には十円はげがいくつもできた。

 祖父の刺繍額の中で一番大きなものが、国会議事堂の応接室にある。祖父が刺し終えた大きな額が階段を降りられず、クレーン車で二階の窓から出したことを覚えている。

 その作品にわたしの巻いた糸を使ったかどうかは、もうわからない。

(2021.10.25 守田雪子)